2006.07.23

プロローグ:1993年 ディグツリー

Burke01

プロローグ 

ロバート・オハラ・バーク、ここに死す。
1861年6月28日 ロバート・オハラ・バークの墓

インナミンカはサウス・オーストラリア北東にある小さな開拓地です。
ここはあの「恐るべき空白」にあるバーク&ウィルズ探検隊の悲劇の場所です。

1860年メルボルンから派遣された探検隊はこの地にベースキャンプを作り、バーク隊長以下4名の先遣隊はついに初の大陸縦断に成功。

その帰路に隊員1名グレイはクンジーレイクス近くにて死亡。
残り3名はなんとかキャンプに帰り着くが、なんと同日の朝ここにとどまっているはずの留守隊は彼らがもう死んでしまったと思い撤退していた。

精も根も尽き果てその場で倒れこんでしまうバーク、ウィルス、そしてキング。
キャンプ地の土中に埋められていたのは、瓶に入った通信文と木箱に約1ヶ月分の食料のみ。

彼らは水を求めクリークをいくつも辿りながら、南への脱出をはかるがクリークはやがて涸れ食料もすぐに底をついてしまった。

一番若かったキングただ1人が先住民族の助けにより、なんと5ヶ月も生き延びハウィットの救援隊に発見された。

彼らがメルボルンを出発して既に13ヶ月を経過していた。

1863年1月21日にヴィクトリア州の名士が招待され壮大なる葬儀が行われた。
その葬列を見送った人々の数は、4万にも達したとされた。

キングはその後セントキルダに住む姉のバンティングの家で、ひっそりと暮らした。
そして1871年に従姉妹と結婚した。

しかしあのクーパーズクリークでの恐ろしい体験から、体は完全に回復することなく、その翌年に肺結核で死亡している。まだ33歳という若さだった。

人々は彼をバークとウィルズの墓のそばに埋めた。

運命の9時間の違い、
その第65キャンプはインナミンカからクーパーズクリークを45キロのぼった、ナパ・メリーという農場の近くにある。

ディグ・トゥリーという名のその木には、今でもLXV(65の意味)とナイフで幹に掘られた跡が確認できる。

その下には"DIG 3ft NW"と、土中に残された瓶と木箱の位置を示す記号も掘られていた。
しかし今それは確認できない。

インナミンカ近くにはバーク、ウィルス、そしてキングの墓がある。

93年10月バイクツーリングで初めてその地を訪れた私は、チェーンで囲まれた木の幹を目の前にして、ただ感無量でした。

そして次にここにくる時には、探検隊と同じく自分だけの力でそのルートを旅してみようと思ったのです。



恐るべき空白


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