« 東海道五十三次を走る 日本橋〜戸塚1 出発編 | トップページ | 東海道五十三次を走る 神奈川〜保土ヶ谷 »

2012.06.26

東海道五十三次を走る 日本橋〜神奈川

東京日本橋から走り出した東海道五十三次。

銀座からしばらく行き、信号待ちで止まっていると
スーツ姿の若者が、

「すいません、田町はどっちですか?」

と聞いてきた。

た、田町?
信号渡って、そのまま、右へまっすぐだけど、、
歩きじゃ結構あるよ。

最近は皆、スマートフォン持っているから、
街中で道を尋ねる人って、外国人くらいになってきた
と思う。

スーツで歩いたんじゃ、汗だくだろうけど、仕事がんばってね。

というわけで、田町です。
三菱自動車のところで撮影。


西郷隆盛 勝海舟 無血開城


ここは元の薩摩藩屋敷跡。
江戸幕府の無血開城へむけ
西郷隆盛と勝海舟が会見を行った場所。

今はその記念碑のみが建っています。

高輪大木戸跡

高輪大木戸跡

石垣だけが当時を語っている高輪大木戸跡。
ここで見送りの人と水杯をかわしていたという。


品川宿場散歩


品川 東海道五十三次

品川を過ぎ、国道を左へ八ツ山橋から旧東海道へとすすむ。


品川宿


東海道 龍馬がゆく

品川の旧東海道には、それっぽい看板や表示がたくさんあって
なんかいい感じだ。
シャッターにも東海道五十三次の浮世絵が描いてある。


浜川橋 東海道五十三次


泪橋 浜川橋 東海道五十三次

ここ立会川にかかる浜川橋は、鈴ケ森刑場へ送られる罪人を
見送る別れの場所であった。
そのためこの橋は、泪橋と呼ばれていた。

見せしめのため、あえて人通りの多い街道を通って
その先に刑場を作っていたという。


鈴ケ森刑場 東海道五十三次

鈴ケ森刑場 東海道五十三次


100円自販機 東海道五十三次

もってきた500mlのスポーツドリンクもそろそろ終わり。
街道沿いの自動販売機で新しいドリンクを買う。
ずっと走っているので、100円自販機でしか買わないのだ。

旧品川から梅屋敷までは、雨の中、賀曽利隆さんと歩いたコースなので
まだ記憶に新しい。
しかしあの日は、傘もささずに黙々と歩いていたのは
我々二人だけだった。

雑色駅の方へ寄り道してみる。
腹が減ってきたので、何か食い物屋はないかと
駅周辺を探したけど、食いたいものは見当たらず
また道へもどって、すすむことに。


六郷橋 東海道五十三次


六郷橋 東海道五十三次

今回の東海道五十三次を走るでは、できるだけ旧東海道を
走るというテーマで、西へ西へとすすんでいくことにしている。

ところが、現在はその風景が大きく変わっている所が
多いため、旧東海道どおりにはなかなかトレースできないのが
実情だ。

多摩川は六郷橋で渡るのだが、当時は渡し船だった。
河原のテニスコートの先まで行って、さらにホームレスの
人達のハウスを抜けて、河原へ出たけども、待てど暮らせど
渡し船は来ませんでした。

となってしまうので、ここは素直に六郷橋を渡って進む。

そのまま第一京浜(国道15号線)をしばらくすすんでしまった。
いかん、いかん、これは旧東海道ではないルートだ。

美濃戸 蕎麦 東海道五十三次


旧東海道へ戻るため、京急川崎駅の方へ行く。
ここで蕎麦屋に入り、昼飯。
注文する前に、麦茶のおかわり。
冷やしきつねうどん650円也。


川崎 東海道五十三次


川崎 芭蕉の句碑


川崎 芭蕉の句碑


芭蕉の句碑

元禄7年(1694)5月、江戸に住んでいた芭蕉は、
子の治郎兵衛と共に長崎へ旅立つ。
芭蕉との別れを惜しむ江戸の門人の利牛、野坡、袋水は
多摩川を渡り、川崎宿まで見送りにきて八丁畷の榎だんご
という店で最後の別れをかわした。

この時、芭蕉が詠んだ句が
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」
なのです。


八丁畷(はっちょうなわて)と人骨。
江戸日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿をすぎてから
隣の市場村へいたる。
(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場あたり)
ここまでの距離が八丁(760m)あり、畷といって道が田畑の中を
まっすぐにのびていたので、この地を八丁畷と呼ぶようになった。

八丁畷(はっちょうなわて)


八丁畷付近では江戸時代より多くの人骨が発掘されている。
度重なる天災、飢饉、疫病などにより多くの人達が命を落としている。
身元不明の人達の死体を松や欅の並木の下に埋葬していた
ものと考えられている。
そうした不幸にも命を落とした人達の慰霊のために、ここに
川崎市が慰霊棟を建てた。

市場の一里塚跡

市場の一里塚跡

市場の一里塚跡。
ここは江戸より5番目の塚にあたり、横浜市内で最初の一里塚。
明治9年(1877年)地租改正にあたり払い下げられ、左側の塚が
現存している。
昭和初期までは塚の上に榎の大木があったらしい。


海抜1.5m

低い!
ひと波でのまれてしまいますな。

鶴見橋関門旧跡

鶴見橋関門旧跡。

鶴見川を渡ります。
安政6年(1859年)6月、横浜港開港とともに神奈川奉行は、外国人に
危害をくわえることを防ぐために、横浜への主要道路筋の要所に
関門や番所を設けて横浜にはいるものを厳しく取り締まっていた。

鶴見橋関門は、万延元年(1860年)4月に設けられ、橋際のところに
往還幅4間(7m)を除き、左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し
黒渋を塗られたものだった。


東海道五十三次

このお寺は、子安あたりだったかな?
なんと目の前を線路が走っている!


ガーミン405

Garmin Forerunner 405 Wireless GPS 心拍数モニター 405

SANYO USB出力付きリチウムイオンバッテリー (専用高容量リチウムイオン電池使用) KBC-L2BS


おいおい、まだ20数kmなのに、ガーミン405のバッテリー
アラートが鳴っている。
最近急にバッテリーのもちが悪くなってしまい、残念無念。
これじゃハーフマラソンまでしか使えない。
予備でサンヨーエネループを持ってきたので、空中空輸しながら
走ります。

駅だと東神奈川駅を通過したところ。


洲崎大神


洲崎大神
建久2年(1191年)源頼朝が安房国一宮の安房神社の
霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。
神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。
そこがかつての船着き場である。
横浜が開港されるとこの船着き場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり
付近には宮の下河岸渡し船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。


さてと歴史に疎い私もこれだけ写真撮りながら
走っていると、帰宅してからの調べ物が多いわ。

というわけで、さらに東海道五十三次を走るは続くのであった。




OUTBACK AUSTRALIA アウトバック・オーストラリア


|

« 東海道五十三次を走る 日本橋〜戸塚1 出発編 | トップページ | 東海道五十三次を走る 神奈川〜保土ヶ谷 »

530:東海道五十三次」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 東海道五十三次を走る 日本橋〜神奈川:

« 東海道五十三次を走る 日本橋〜戸塚1 出発編 | トップページ | 東海道五十三次を走る 神奈川〜保土ヶ谷 »