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2012年8月

2012.08.28

東海道五十三次を走る 沼津〜原・左富士

抜けるような青空のもと、富士山を横に見ながらの
東海道の旅はさぞかし、気持ちの良いものだろう。

しかし真夏のど真ん中、電車や車の旅行者ではなく
私は自分の足のみが頼りの一人ジョギング東海道五十三次。

せっかく買った青春18切符を使わない手は無い。
しかし、その期限は9月10日まで。
夏の暑い時期、ちょっとした曇りの日に狙いを定めて
旧東海道のジョギングの続きを走る。

というわけで、8月18日今日は一日曇りのち雨。

ついに始発電車での出発になった。
朝4時半起床して、朝飯抜きで駅へ行く。

私鉄からJRに乗り換える。
なんとラッキー、東海道線は沼津行きだ!
ほとんどは熱海行きだから、乗り換えが必要となり、
時間のロスもあるのだが、一気に行ける。
早起きは三文の得。

朝早い電車なのに結構混んでいる。
新潟へ行ったときと同じように、青春18切符組が乗っているのだ。
鉄道の話やら、乗り換えの接続とどうだとか、
テッチャンの話には、ついていけない。
私は、そんな早朝のうるさい車内で少しでも睡眠をとることに
専念したのだ。
車窓なんかどうでもいいのは、いつもと同じ。


沼津駅 東海道五十三次

沼津駅に到着。
まずは腹ごしらえ、っか。
ドトールに行こうかと思ったけど、せっかくの良い天気(曇り空)なので
すぐにジョギングをスタートすることにした。


駅から沼津城跡まで 東海道五十三次

駅から沼津城跡まで歩きながら、おにぎりを食べて歩く。

晴天続きで30℃を越える日々の合間の貴重な曇り。
今日しかない!
と思ったのだが、走り出したら蒸し暑くてたまらない。

松長の一里塚跡 東海道五十三次


松長の一里塚跡。

石碑は立派だけど、当時の面影は欠片も無い。


原宿 東海道五十三次


原宿

といえば、東京の原宿が思い浮かぶようになった私は
もうすっかり東京人か。

人生の半分以上は東京になってしまったからな。

生まれは愛知県、育ちは熊本県なのだが、社会人はほとんど関東だ。

で、旧東海道の原宿は面影はなく、記念碑だけが東木戸跡と
西木戸跡にありましたとさ。

西一本松 東海道五十三次

西一本松

どんと立派な一本松があります。
そのまま、西一本松がバス停にもなっているのです。

しかし、このあたり、ずーっと道が直線でただただ単調。
走っていて、何も楽しくない。
おまけにコンビニやお店もほとんどない。

曇り空だけど蒸し暑くて、なかなかペースは上がらず、、。

道路沿いの家は大きくて、書庫があり、外にも水道の蛇口が
ついています。

暑くて水をかぶりたいのですが、公園がないんです。
だからといって勝手によそんちの水道を拝借するわけにはいかず、
なんとか会館とか、明らかに今は人がいないところで外にある
蛇口から水を頂きました。

頭から、水をかぶって、Tシャツもびちょびちょになるのですが
暑いので走っていると、すぐに乾いてしまいます。

東海道五十三次

鉄道を横切りました。
東海道新幹線、ではなく、ローカル線です。
まったく電車が来る気配がないので、堂々と写真を
撮ったりしてみました。

東海道五十三次

富士市に入りました。
ずっと変わらずの直線道路が続きます。
単調で、暑さもあり頭がボーっとしてきました。


間の宿 柏原 東海道五十三次

柏原

幕府のお達しでは、基本的に宿場以外での宿泊は禁止されていた。
しかし、宿場間の距離が長い場合や峠越えなどの難路の場合、
宿場間に休憩用の宿が置かれ、間の宿と呼ばれた。

ここ柏原は、間の宿だったようだ。
いまは何も残っていない。

増田平四郎の像と一里塚跡 東海道五十三次


増田平四郎の像と一里塚跡 東海道五十三次


増田平四郎の像と一里塚跡

浮島沼の干拓に生涯を捧げ、「スイホシ」と呼ばれる排水路の大工事を
行った偉人。
現在はその跡に「昭和放水路」ができている。
この付近に江戸から33里の一里塚があったという。

大野屋さんで休憩 東海道五十三次

大野屋さんで休憩。
自販機の缶コーラが100円。
ベンチでコーラをグビグビ、はあ〜生き返る。

飲み終わった後に、お店のおばさんに

「外にある水道の水をもらっていいですか?」

とお願いして、頭から水道水をかぶり、Tシャツも濡らす。
これがないと、夏のジョギングはやってられない。
死んじゃうからね。


名勝 左富士 東海道五十三次

でた〜!!
名勝 左富士!!

って富士山はどこだ?

真夏のジョギングなので、わざと曇りのち雨の日に走っているので
しょうがないとはいえ、やっぱりこの一番のポイントで富士山が
全く見えないというのは残念至極。


左富士神社 東海道五十三次

左富士神社

旅の途中の神社はありがたいね〜。
だって水があるもん。

口をゆすいで、手を洗って、頭から水をかけて、水をかけて、
水をかけて、水をかけて、水をかけて、水をかけて、水をかけて、水をかけて、

そして旅の無事をお祈りするのですよ。


左富士神社 東海道五十三次

神社にあったこの下駄。
なんで丸いのでしょうか?

旧東海道左富士の松 東海道五十三次

旧東海道左富士の松 東海道五十三次


景観重要樹木 旧東海道左富士の松
太い幹が歴史を感じさせ、往時の東海道左富士の
松並木の風景をしのばせる貴重な樹木。
ここで富士山が見えれば、感動ものですな。


平家越の碑 東海道五十三次

平家越の碑 東海道五十三次


平家越の碑
治承4年(1180)源平の富士川の合戦の際、富士沼(浮島ヶ原)の
水鳥が群れ立つ羽音に驚いた平家は、源氏の襲来かと思いそのまま
逃げ去ったという。
その場所がこの付近と伝えられている。

そして、ここには、素晴らしい水場があります!
どかっと勢い良く出て来る水、水、水!
感激であります。


東海道五十三次

吉原宿の変遷です。
こんなに移動しているんですね。


さて、もうすぐ吉原宿に入っていきますよ。


今でもこん素晴らしい絵が入手できます。





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2012.08.23

機動戦士ガンダムUC (Mobile Suit Gundam UC) episode 5「黒いユニコーン」

ガンダムユニコーンの映像作品5作目をようやく観ました。

ストーリー

黒いガンダム、パンシィに急襲され身柄を拘束されるバナージ。
八方ふさがりの状況下、ユニコーンガンダムが開示した
「ラプラスの箱」への新たな座標を秘匿し続けるバナージに、
ロンド・ベル隊司令ブライトは歴代のガンダムパイロットが
見せてきた矜持(きょうじ)と可能性を見いだし、その助け手は
彼と共に戦った旧友の人物へと繋がっていく。

一方、ローナンからマーサに引き渡されたミネバは、バナージに
口を割らせるための駒として超大型輸送機ガルダへ移送されてしまう。

箱を巡る戦場は、超高度の翼上へ、やがて再び宇宙へと飛翔する、、。


前作に引き続き、ブライト司令が登場しています。
新しい声優さんの声に違和感を覚えましたが、ブライドも
もう中年だし、0079年のガンダム時代とまったく同じ声でも
ないでしょう。

今回は特に先入観もなく、これがブライトさんだ、と
妙に納得してみる事ができました。


すっかりアルベルトに洗脳されてしまったマリーダ・クルスは、
黒いガンダム、パンシィのパイロットになってしまう。

バナージの必至の呼びかけに、苦悶の表情をしめすが
過去の記憶には、なかなか戻れず、苦しみながら
パンシィを操る。

マリーダの暴走を止めたのは、生身でガルダに乗り込んできた
ガランシェールの艦長ジンネマンだった。

ジンネマンをパンシィで踏みつぶすかと、心配してしまった。

原作10巻は、読み終わっているのだけど、なかなか映像作品は
すすんでいかないので、観ながら思い出している感じ。
新鮮な感じで観れるから、もう原作は読み返さないようにしている。


ガランシェールは、バナージの活躍で、ミネバとマリーダ
の救出に成功。

迎えにきた?因縁の船、地球連邦軍ロンド・ベル隊の
強襲揚陸艦ネェル・アーガマ。

しかし出力不足でネェル・アーガマとの距離が遠過ぎて
ワイヤーでの接続ができない状況に、、、

バナージは、ユニコーンガンダムで、ガランシェールの先端に立ち
そのワイヤーを掴み、引き寄せる!
なんとも超人的な働きを見せるのだ。

いくら宇宙空間でも、その質量を考えるとあれはどうかな、
と思うけど、ガンダムのあのオーラ。
アクシズショックにも
似たもので、2つの宇宙船は覆われていた。

いよいよ宇宙での最終章に近づいてきたガンダムユニコーン。
原作の8巻、宇宙と惑星と(そらとほしと)に続く。



何?ガンダムユニコーンを知らない。
だったら迷わず原作を読みなさーい。


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2012.08.19

飯士山 いいじやま 登山 コースは

飯士山(いいじやま)は、新潟県越後湯沢駅から山頂まで
登る事が出来る、駅近な山である。

標高は、1111.8mと高くないので、ほとんど現在本屋で
売られている登山ガイドブックなどには、載っていない。

『ハイグレードハイキング』(山と渓谷社)、『関越道の山』(実業の友社)
に出ていたが、両著共絶版でかつ昭文社の登山地図には記載がない。

しかし、低い山だからって、ガイドが不要って程、簡単な
山ではないのだ。

私が登ったコースは、越後湯沢駅を東口に降りて、そのまま
真っ直ぐ東へ進む。


飯士山 いいじやま 登山

高速道路にぶちあたるまで進むと、T字看板で左方向
神弁橋の表示があるので、左へ進む。

高速をくぐり細い道を進んでいくと、鮎釣りを楽しむ人達が
いる川を渡る、小さな神弁橋に着く。


飯士山 いいじやま 神弁橋


飯士山 いいじやま 神弁橋


橋を渡って、すぐ登山口の道標が斜めって立っている。

えっ、本当にここか?

と思う程、登山口付近は、夏の草で覆われていて、ほとんど
土地の路面が見えない状態となっていた。

草をかき分けかき分け、慎重に足を運んでいく。
しばらくすると、小さな橋があり、そこを渡ると自分のきた道が
正しかったわかるくらいに、はっきりと地面が確認できた。

もうずっとこのルートを登った人はいないようで、足跡もなければ
草は伸び放題で、ランニングパンツの私の太ももは、草で
ひっかかれて、むず痒い状態だ。

落ちている木の枝をもって、草をかきわけ、蜘蛛の巣をはらい
ながら進んでいく。


飯士山 いいじやま 神弁橋


急な登りが続く。
トラロープが要所要所に、設置されているので
両手両足をフルに使って登っていく。

手袋をしてきて良かった。

飯士山 神弁橋のコースは、危険な程の急勾配なので
下りは禁止されているということだ。
しかし、途中そのような注意書きなどは、いっさい見当たらなかった。
別のコースで、飯士山へ登った人が、この神弁橋コースで
降りてきてしまう可能性はあると思う。


飯士山 いいじやま


ほとんど登る人もいないから、事故も無く、看板や表示は
斜めっていたり、地面に落ちていたり、と荒れ放題だ。

ピークに達すると、下に湯沢の町がみえる。
周りの山々も広がっていて、とても気持ちが良い。

ここからは、アップダウンを繰り返しながら、さらに飯士山
の山頂へむけて進んでいく。

岩場も少しだけあった。

飯士山 いいじやま


突然道がなくなって、岩にぶつかっている。

いったい、ここはどう進むのだ?
もしかして道を間違えたのか?

岩に直接、矢印が書かれていたので、その心配は
すぐに消えた。

少しだけだけど、この岩場を乗り越える所は、本格的な
登山ルートを辿っているみたいで、興奮した。

一人だけの岩のルートは、足場がしっかりしているとはいえ
滑って落ちたら、そのまま遭難にも繋がる可能性がある。
なんせお盆休みまっただ中であっても、誰も登って来ないのだから。

飯士山 いいじやま


山頂到着。
越後湯沢駅の東口から、1時間40分かかった。

暑くて、たくさんドリンクを消費した。
スタートでは、500のペットボトル2本に、1本は満タン、もう1本は
6割りくらいだった。
残りは200cc程しか無い。

腹は減っていないが、念のため、ジェルを一つ摂っておく。

下りは、広く見える岩原スキー場のゲレンデをだらだらと行く。


飯士山 いいじやま

私は、スキーをやったことがないので、リフトを間近で観る事が
珍しく、しばらく頂上のリフト降り場?をうろうろしてから
雪の無い、ゲレンデを下った。

あっと言う間に下に着いた。

早速自販機でドリンク補充。

これから登る二人組のおじさんも、自販機何本もドリンクを
買っていた。

飯士山登山下山では、誰にも会う事はなく終わった。
唯一、これからかな?
と思われたのが、岩原スキー場の登山口であった二人だけだった。


飯士山 いいじやま


岩原スキー場から、下の道路におり、走って再び越後湯沢駅へ。

トータル3時間のトレイルランニング終了。
沢山汗をかいた。

越後湯沢駅のお土産屋さんがならぶ、CoCoLo湯沢の奥にある
温泉につかって、足を伸ばす。 800円。

お土産を買って、ふたたび青春18切符で長岡へ。
ここで妻の両親が長岡駅まで迎えにきてくれた。


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2012.08.17

孤高の人 加藤文太郎

山好きの人なら、一度は読んでいるだろう新田次郎の
山岳小説、孤高の人。

昭和初期に活躍した日本を代表する登山家で、当時はまだ
登山が一部のお金持ちだけの趣味だったものを
一般社会人にも広めた功績は大きい。

また、日本アルプスなどに登る時には、地元の案内人を
ガイドとして雇って同行するのが、常識だったが
加藤文太郎は単独で山へ入っていった。


実在の登山家、加藤文太郎をモデルにした新田次郎の
傑作山岳小説である。

この本を読んで、山にのめり込んだ人は少なくないだろう。

単独行という加藤文太郎の著作もあるが、私はまだ読んでいない。
それほど山に詳しくなく、日本アルプスなどの経験がない
私にはいまひとつ地理感がつかめない。

だったら、もっと山に登れ!

と叱られそうだけど。


加藤文太郎は、たんなる単独登山を行ったというだけではなく、
その脚力が超人的だったのである。

山歩きをはじめて間もない1925(大正14)年には、
単独行で六甲山脈全山縦走を行なっている。
このときは午前5時に会社の宿舎を出て、100kmの全山縦走を
終えて戻ってきたのが翌日の午前2時。
しかも会社にはいつもどおり出社したというから、まさに驚異的というほかはない。

もし現在の装備をもってしたら、加藤文太郎はいったいどんな
記録を作ったのだろうか?

100kmのトレイルランニングレースに出場して、完走。
ゴール後いったん家に帰って、仮眠をとって朝には出勤する。

そんなスーパーマンのような登山者、トレイルランナーに
なっているかもしれない。

ヒマラヤにアタックしていただろうか?
北極や南極を歩いただろうか?


山の単独行とは、異なるかもしれないが、私のツーリング
スタイルは、自分だけの単独行だ。

バイクでも自転車でも、ジョギングの練習でも。

特にバイクでは、速い人についていけなかったり、
初心者や遅い人に気を遣って走るのは、お金をもらっても
嫌なタイプ。

他人に合わせて、つらい思いをするぐらいなら、自分一人で
道に迷っていた方がマシだ。

ツーリングというと、一人単独で自由に走るまわることを
極上としているが、バイクショップやチームでつるんで走る事を
ツーリングと呼ぶ人もいる。
全く私とは水が合わない、ライダーたちだ。

誰かをはじめから頼りにして走っているライダーに魅力を
感じる事は全く無い。

単独行は、無謀と言われがちだが、その準備には
しっかりと時間と手間をかけるのが普通だろう。

周りの人にバカにされようが、自分の意思を貫いて単独行に
こだわったスタイルにとても共感がもてる。

小説、孤高の人では、加藤文太郎は、宮村健と無理矢理
パーティーを組む羽目になり、また宮村の無謀な登山計画に
巻き込まれ、冬の北鎌尾根で遭難死している。

わがままで、自分勝手な宮村にさえ、会わなければ、加藤文太郎は
死なずに済んだものを、、、

と読者は、宮村健を迷惑登山仲間とみてしまいがちだ。


加藤文太郎が実名で登場しているため、その周りの人物も
名前は違えど、実際に彼の人生に影響をおよぼした人達である。


宮村健は、実在の人物、吉田富久と言われている。

小説では、とても寡黙で人付き合いの苦手な、本当に
孤独な変人として描写されているが、実際には山仲間を
大事にする友情溢れる人のようだ。

愛妻に山仲間の話や仲間との友情などを話していたし、
吉田との登山も北鎌尾根の以前にも行っている。

加藤は、自分が岩登りが苦手で下手なため、同行した吉田に
とても迷惑をかけてしまい、指も凍傷させてしまったことを
ノートに記録している。


ザイルで命を預け合った山男の友情で結ばれていたと思われる。

ドラマチックな展開にし、単独行の加藤を孤高の人とするための
作者ならではの演出なのか、出版社、編集者の企画なのかは不明。

実話として小説を発表しているからには、登場人物のイメージは
読者の勝手な思い込みとして残ってしまうことを作家 新田次郎は
どう考えていたのだろうか。


同名の漫画があることを最近知った。
立ち読みしたけど、中は現在の若者の話になっていて
加藤文太郎との関連はなさそうだ。

若い人が、漫画の原作を読んでみたくなった
という理由から、新田次郎の孤高の人を読んでいるようだ。

漫画をきっかけでも、良いからもっと小説を読み、
加藤文太郎のような人物がいた事を知ってもらう事は
たいへん喜ばしいと思う。



 加藤文太郎記念図書館の 「孤高の人」より引用

加藤文太郎は、1905年(明治38年)3月11日 
兵庫県美方郡浜坂町浜坂552番地 加藤岩太郎と、よねの四男として生まれる。

  1919年(大正8年)3月11日 浜坂尋常高等小学校高等科を卒業後、
神戸市の三菱内燃機神戸製作所(現在は三菱神戸造船所)に製図修業生として入社、
設計課員として精励するかたわら、兵庫県立工業学校別科機械科(修業年限2ヶ年)
を卒業、更に神戸工業高等専修学校電気科(修業年限3ヶ年)の課程を卒業、
技能の向上に専念した。

  1923年(大正12年)から登山を始め、1925年(大正14年)夏、
白馬岳登山が始まりで、1928年(昭和3年)ごろから単独行を重ね、
積雪期の八ヶ岳、槍ヶ岳、立山、穂高岳、黒部五郎岳、笠ヶ岳など
果敢な山登りを展開する。

なかでも冬の槍ヶ岳単独登頂は、当時の新聞や岳人たちをアッといわせる驚異的な足跡を残す。

  彼のその沈着と用意周到かつ独創的にして勇猛果敢不屈の岳人として、
「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」と呼ばれ、日本の登山界に不滅の足跡を残し、
国宝的存在とまで賞賛されるに至る。

やがて、加藤もより困難な山登りに挑むため、良き同伴者を求め、
1934年(昭和9年)4月、吉田富久君と共に前穂高北尾根をめざす。

翌年1月には、単独で立山から針ノ木岳を越えて大町に出た。
そして、1936年(昭和11年)1月初旬、再び吉田君と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑み、
猛吹雪にあい、天上沢に31歳の青春を終える。

ヒマラヤへの夢を実現できなかったのが惜しまれる。
彼の死をある新聞は、「国宝的山の猛者、槍で遭難」と伝える。


孤高の人(上巻)71刷改版 [ 新田次郎 ]

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2012.08.16

青春18切符 東京から新潟へ

青春18切符は、青春がとっくに終わったおっさんでも
18歳でなくても買う事ができる。

特急には乗れないけど、1日JRに乗り放題の
5日分が1セットで、11,500円なのだ。

東海道五十三次ジョギングでの使用を考えての
購入だったが、夏の暑さに沼津から先を走れる自信が全く無い。

ということで、新潟の親戚へ行く事にした。

妻の実家なわけだが、妻は仕事なので、私一人で
鈍行電車の旅なのだ。


ほぼ始発に近い電車で出発。
スタートは私鉄だが、PASMO定期なので支払いは無し。

五反田でJRに乗り換え。
ここはいつもJR乗り換え口で、PASMOタッチをしているが
駅員さんがいる通路へ行き、青春18切符にスタンプを
押してもらう。

自動改札が使えないが、その後は駅員さんに切符を
みせれば、どこの駅へ行こうが、どこで下車しようが
もう私は自由なのだ!


高崎で上越線に乗り換え

上野駅で乗り換え、高崎線に乗り高崎へ行く。
コンビニのおにぎりで朝飯。

高崎で上越線に乗り換え、水上へ行く。
ここから電車が短くなったかな?

水上から越後湯沢まで、ここでついに座る事ができなくなった。
3両編成のボックスシートは、お客さんいっぱいで
立っている人も大荷物でスーツケースや、
大型ザックを背負った登山の人が多い。

普段はゆったりしている路線も、お盆の時期は混雑しているのだろう。


さて、ここまでざっと辿ってきたが、車両がどんな形式だとか
駅舎が古くて、どうのこうのとか、そんな記事は全く書けない。

私は鉄道マニアではない

のだ。

バイクや自転車のように、自分でルートを作って自由に
走れない、ただ乗っかっているだけの電車なんて、、、

ま、鉄道旅が悪い訳ではないのだけど、自分の性には合っていないのだ。

なので、電車にも路線にも駅にも、駅弁にも、ほとんど興味が無い。
青春18切符を使っているのは、ただお金に余裕がないだけなのだ。
それに、新幹線を使うような時間を短縮する理由も無い。

車窓からの風景を眺めて、楽しめる人はいいだろうが、
まったくといっていいほど、越後湯沢まで外の風景は観ていない。

では、何をやっていたのか?

寝てた。

朝早起きしたので、やっぱ座ると寝てしまう。

本読んでた。

会社が神保町だと、ついつい本を買ってしまう。
でも読んでる閑はない。

ここで一気に読書なのだ。
本にかじりついた。
がっちりと。
なので風景なんか観ていない。

行きの電車内で読み終わった本は、新田次郎の
孤高の人

昭和初期に、有名になった登山家 加藤文太郎の孤独と青春を描いた長編小説。
加藤はパーティーを組んでの登山をせずに、いつも単独で活動していた。
単独行の加藤文太郎。地下足袋の加藤。
しかし、たった一度の仲間との登山で冬の北鎌尾根で消息を絶ってしまう。

今日8月13日は、越後湯沢が最終目的地ではなく、
柏崎なのだ。

なぜここで降りたか。

越後湯沢駅から、東口を出て真っ直ぐすすみ、神弁橋で
川を越え飯士山へ登る為だ。


低い山だが、厳しいルートでの登り。
もちろん一人。

これから単独登山というときに、
孤高の人を読了とは
なんと良いタイミングだろうか。

しかし、

加藤文太郎は、遭難している。
山で死んでいる。

ちょっと縁起が悪いかな?


次は、飯士山登山に続く。




【内容情報】(「BOOK」データベースより)
昭和初期、ヒマラヤ征服の夢を秘め、限られた裕福な人々だけのものであった登山界に、
社会人登山家としての道を開拓しながら日本アルプスの山々を、
ひとり疾風のように踏破していった“単独行の加藤文太郎”。


孤高の人


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2012.08.12

スターウォーズ コンサート tokyo

2度にわたる北米ツアーとヨーロッパ・ツアーで世界が大絶賛した、
スター・ウォーズの映像と音楽によるクラシック・コンサート
「スター・ウォーズ in コンサート」が、ついに日本初上陸。


待ちに待った東京公演に行ってきました!

ざっとこのコンサートの概要は、
本公演は、2009年10月にスタートした44都市47公演の
北米ツアーで75万人を動員し、その後のヨーロッパ・ツアーで
18公演30万人、2度目の北米ツアーで32都市40公演70万人、
累計175万人を動員した世界で超人気のコンサート。
この夏、東京・大阪で開催され、アジア初上陸を果たす。

というわけで、スターウォーズファンなら絶対に行きたいコンサートなのです。

ステージ上のオーケストラのバックには、スクリーンがあり
映画を編集したものが音楽に合わせて、映し出されます。

また、フラッシュライトや、レーザー光線、スモークなどによる
舞台演出との複合的な組み合わせで、超スターウォーズな
空間の劇場となる夢のコンサート。

1時間以上前に東京国際フォーラムAに並ぶ。
けっこう早い方で、まだ並んでいる人は50名いないくらい。

この日の公演で、予約したプレミアチケットはダースベイダーの
絵になっている。
下に切り取り線があるけど、そこをビリッと破るようなことはせず、
パンチでチケット下部に穴を開けるだけという
ファンの気持ちをわかっている対応。


starwars_concert


グッズ売り場とガチャガチャ、そしてパンフレット売り場。
パンフレットは3000円。これがメチャクチャでかい。
買った人は、自宅で本棚に入れる事はできないでしょうね。

私は買っていません。

だってもう新しい作品を作らないと宣言されちまったので
これまでの写真やデザイン画の放出ですよね。
おそらく自宅に持ち帰り、2、3度見たら、ずっと保管状態かなっと。


エスカレーターから、ベイダー卿ご一行様が降りてきた!!


なんかダースベイダー卿が、太っている。
背は高くていいんだけど、あんなに丸くはないだろう?

ファンが記念撮影に群がる、群がる。

スターウォーズ コンサート tokyo

メインキャラクターが残念(中の人は普通の日本人なので、、)な中、とっても
良くて、かわいかったキャラクター。

それがジャワ族のおチビちゃん。

ライフルを抱えて、フロアーをピョコピョコと跳ね回るように
歩きまわっていました。

肩をたたいて、一緒に記念撮影をしてもらう。

スターウォーズ コンサート ジャワ族

トイレを済ませ、ジュースも飲んで、いざ座席に着く。

32列、真ん中よりやや左。
オーケストラ全景とスクリーン、左右のサブスクリーンも一望できる
まずまずのポジション。

劇場の照明が落ち、暗くなると20世紀フォックスのテーマ曲が、

チャッチャカチャーン〜、、、と流れる。

これが生オーケストラだから、ちょっと感動する。

そして、

A long time ago in a galaxy far,
far away . . . .

と同時に、あのスターウォーズのテーマが、
ジャーン〜!!

と生オーケストラの演奏で始まるわけです。

もう、それは鳥肌モンですよ!はい!


演奏とスクリーンに映し出される映画のシーンは、もちろん
ぴったりと合っていて、演奏の最後と映像がぴたりと終わる!

フラッシュライトとレーザー光線、スモークも少々あって
劇場全体が銀河宇宙のSFワールドに突入。

もう観客が誰もがうっとり。
眼がハートマークの人もいるでしょうね。


エピソード1から6までをストーリーを追っていく形で
ひとつの楽曲ごとに進行していきます。

司会進行役は、C-3POを演じたアンソニー・ダニエルズさん。

日本語も少し入れてくれて、とってもうまい進行でした。
もちろん英語で話されますが、スクリーンにはちゃんと
日本語字幕がでるので、よくわかります。

まあ、スターウォーズファンなら、あのくらいの英語なら、次は
どんなシーンを演じてくれるかは想像にたやすいです。

エピソード4、5、6が好きな私は、コンサートも後半が盛り上がりました。

ラストはもう涙が出そうな程、感動しました。

鳴り止まぬ拍手喝采、感動!

そして、驚きのアンコール。

たっぷりと楽しめた2時間半。

アジア初のスターウォーズコンサート。
まさか貴方は見逃したとは言わないでしょうね?


フォースと共にあらんことを、、


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2012.08.08

10km 夜ジョグ

ほぼ定時で帰れたので、夜のジョギングに行く。

シューズはナイキのフリーラン+2
元祖ベアフット感覚シューズってやつ。

距離が短い平日は、ほとんどこのフリーランで
普段の外出もこれ。
今は雪駄が多いけど。

走る前から、ちょっと右膝に違和感があった。
横に力がかかると、少し痛みも感じる。
これは、悪い兆候だなー。

だいぶ良くなってきていると思っていたけど、
まだまだ完治には程遠いみたい。

というわけで、ゆっくり走ることにする。

今日は珍しく風が涼しくて、ジョギングには良い環境なのだけど
やっぱ、膝の異常で怖くてペースが上げられない。

ここでまた壊すと、秋以降のレースがボロボロになるのは
目に見えている。

ユーチューブで、フォアフットランニングの動画をいくつか
観たので、そのイメージのまま走ってみる。

はじめはうまくいってるように感じたのだけど、
そのうち、フォアフット着地なのか、ミッド着地なのか
やっぱり踵着地なのか、、、。

ペースはずっと遅いままだったけど、そのまま近所をぐるぐると
10km走る。

タイムを気にしなかったせいもあるけど、脚に疲れはなく
暑くなかったので、呼吸も楽、おそらく心拍数もあまり上がっていないようだ。


うまくフォアフットランニングができれば、脚の疲れが少なく、
長距離もいけそうな、そうウルトラマラソンとかも
完走できちゃいそうな、感覚を少しだけ掴めた気がした。

ところで岩本さんのウルトラマラソン本はいつ出るのかな?


距離: 10.02 km
タイム: 1:03:15
平均ペース: 6:19 min/km
高度上昇値: 55 m
カロリー: 748 C


ラップ
1 6:38.1
2 6:12.1
3 6:14.7
4 6:09.4
5 6:15.8
6 6:17.7
7 6:26.2
8 6:21.5
9 6:18.9
10 6:11.8
11  :08.9


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2012.08.05

ロンドンオリンピック 柔道

オリンピック期間中だからといって、とくにテレビに
かじり付いていたりはしないわけで、、

深夜までライブ中継を観る事もありません。

今一、盛り上がりません>自分自身。

暑い日々をなんとかして欲しい。

といいつつ、テレビをつけると観てしまうんですね>ロンドンオリンピック。


オリンピックの柔道

以前にもこのブログに書いたのですが、柔道はオリンピック競技に
すべきではなかったと思います。
柔道は武道であり、ポイント制スポーツではないですからね。

世界一を決めるのに、わずか数分っておかしいと思いませんか?

どちらかがぶっ倒れるまで、無制限でやるとか
巌流島で一本勝負でしょ!

睨み合ったまま、あるいは、組み合ったまま、微動だに両者動かず
その状態ではや90分!

なんてのが、柔道の世界一決定戦であって欲しい。

これから柔道で活躍して世界で戦う選手のうち、一人でもいいから
世界選手権やオリンピックではなく、本当の柔道の勝負を追求する
姿勢をもった人材が現れてくる事を切に希望します。


木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

さてさて、これからは、女子マラソンですかね。

柔道もマラソンも経験あり、でもテレビ観戦はいまいち、、


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2012.08.01

東海道五十三次を走る 箱根、三島、沼津 3日目完走

東海道五十三次を走るの3回目。
小田原から箱根峠を越えて、静岡県に入りました。


接待茶屋 東海道五十三次

接待茶屋

箱根山を往来する人達の苦難を救う為に、人や馬に粥や飼葉、
焚き火を無料で施したと伝えられている。

この接待所も一時途絶え、つで文政7年(1824)、江戸の豪商
加勢屋与兵衛が再興したが、これも明治維新とともに中断してしまった。

やがて明治12年(1879)八石性理教会によって接待茶屋は
再スタートしたが、教会の衰退とともに鈴木家に引き継がれ、利喜三郎
、とめ、力之助、万太郎、ときらの三代により接待が続けられた。

鈴木家は、昭和45年(1970)に茶釜を降ろし、接待茶屋の歴史に
終止符を打つまでの約90年間、箱根を往来する人馬の救済に
あたった。

しかし、今はバス停のみで、誰も接待してくれず。


かぶと石 東海道五十三次

かぶと石

この石は兜を伏せたような形をしていることから
かぶと石といわれている。
また別の説として傍らの碑銘によれば豊臣秀吉が小田原征伐のとき
休息した際、兜をこの石の上に置いたことから、かぶと石と
よばれるようになったともいわれている。

この石は、兜石坂にあったものを昭和初期に国道1号線の拡張工事の
とき、この地に移設されてきたものである。


念仏石 東海道五十三次

念仏石

ここに突き出ている大きな石を、土地の人は念仏石と呼ぶ。
この念仏石の前に「南無阿弥陀仏・宗閑寺」と刻んだ碑があるが、
旅の行き倒れを宗閑寺で供養して、碑を建てたものと思われる。

山中新田 東海道五十三次

県によって、東海道五十三次の碑は変わってきます。
この立派な道標は、静岡県バージョン。


雲助徳利の墓  東海道五十三次


雲助徳利の墓

西国大名の剣術指南であった九四郎なる人物が酒がもとで事件を起こし、
国外追放となりここ箱根へ流れ着いた。

剣術の腕前に優れ、読み書きができるのでいつのまにか雲助仲間に
親分として慕われる事になったが、酒が原因で命を縮め亡くなった。
世話になった雲助たちが死後墓を建ててくれ「あの世でも好きな酒を」
と盃と徳利を刻んだという。


中山城跡 東海道五十三次

中山城跡

ここは寄り道せずに素通り。
道路の向かいにあったお店はうなぎ屋さんだったかな?
すごくいいにおいで、一気に腹が減ってきた。
まだ何も食べてない。


芭蕉 山中新田 東海道五十三次


芭蕉の句碑。


松雲寺 東海道五十三次

松雲寺

寺本陣旧跡と書いてあった。また、明治天皇史跡などもある。
富士山の絶景ポイントらしいが、この日は何も見えず。


一番亭三島塚原店でランチ


当初予定していた三島まで来てしまったので、このあとの
沼津まで一気に走る事に決定!
もう下りだからね。

さてその前に腹ごしらえ。
14時過ぎ、一番亭三島塚原店でランチ。
もやしと豚肉の炒め、半ラーメンとライスのセットで
609円でした。


錦田一里塚 東海道五十三次

錦田一里塚

この一里塚は、江戸日本橋より始まる東海道の28里(約112km)の
地点にあり、松並木の道路を挟んで向かい合って一対残っており、
旧態を保っていてたいへん貴重である。

愛宕坂 東海道五十三次

愛宕坂

石畳の修理の記録によると、「愛宕坂では、長さ140m、幅3.6mを
修理した」とあり、当時の道幅がわかる。

現在この道は、石畳風に整備されている所と、その下には往時の石畳が
埋まっている所とがある。

両側の松並木敷のうち、南側の並木敷だけ復元したもので、この先の
初音原の松並木に続いている。

江戸時代には、現在の東海病院の敷地には、愛宕社ほかの社寺があったが
現在は「愛宕山」と刻んだ碑だけが頭上のこんもりとした小山に
残っている。

三島からはもう上り坂はないかと思っていましたが、
いやはやこの坂は後半かなりきつかった。

三島神社 東海道五十三次


三島神社です。
ここまで来る予定が無かったので、予備知識ゼロ。
立派な神社ですね!
結婚式を終えたカップルがクラシックカーへ乗り込む
ところを目撃しました。

しかしお参りもせず、素通り。

玉井寺 一里塚 東海道五十三次

宝池寺 一里塚 東海道五十三次

玉井寺 一里塚

江戸日本橋から29里(113.9km)の道標。
宝池寺一里塚も同時に作られていたが、昭和60年(1985)に改修
されている。
この玉井寺一里塚は、昔の姿をそのままに残している。
ちゃんと小山と木があるのだ。


日本三大仇討の一  東海道五十三次

日本三大仇討の一 (ひとつ)

平作地蔵尊の由来
この地蔵尊はいつ頃創建されたか明らかではないが、有名な浄瑠璃
「伊賀超道中双六」に出てくる沼津の平作のゆかりの深い地蔵尊
としてその名を知られている。


平町の一里塚と玉砥石


平町の一里塚と玉砥石

江戸日本橋から30里のところにある一里塚。
周囲は住宅地の中の小公園になっていて、付近の住民の憩いの場となっている。

手前には県指定有形文化財(考古資料)の『玉砥石(たまといし)』がある。
今から1300年程前、玉類を磨くために用いられたと考えられている。

とても砥石には見えませんが、いったいどうやってこれを使っていたのかな?

三枚橋城石垣

三枚橋城石垣

武田勝頼により天正7(1579)年頃に、この地に築城された三枚橋城は、
慶長18(1613)年に大久保忠佐を最後の城主として廃城となった。
この石垣は、アゴラ沼津の地下から発見された三枚橋城の本丸入口付近
の石垣の一部を復元したものである。

沼津城本丸跡

沼津城本丸跡

沼津城は、安永9年(1780)水野忠友が築いた城で、明治5年、
静岡県によって解体された。
付近は中央公園となっており、狩野川の西岸、御園橋と御成橋の中間にある
『あゆみ橋』(歩行者専用)につながり、市街地の憩いの場となっている。

スケボー小僧がやたらうるさかったな。

ガーミンデータ 沼津ゴール


というわけで沼津駅でゴール。
天気は悪くて富士山がまったく見えなかったけど、もう夏のこの時期は
雨や曇りを狙って先に進むしかありません。


三島から市街地に入り、人や町の雰囲気がこれまでとは違ってきました。
小田原までは、関東なんでしょうね。
なんとなくそんなことを感じながら沼津を走りました。

事前に三島ではスーパー銭湯があると調べていたのですが、予定以上に
走ったため、沼津ではお風呂に行けず。

薬局で、メンズボデーなんちゃらを買って、体を拭き拭き、、、
トイレで着替えて、缶ビールをバス停で独り呑み。

帰りの電車では、一気に東京まで行けず、まずは熱海行きに乗って
それから東海道線に乗り換えるという、もうかなりの長距離鉄道移動に
なってきました。

夏休み、どこまで行けるかな?

ガーミン走行データ


2012年7月21日 土曜日 雨のち曇り 箱根は霧

距離: 39.75 km
タイム: 7:06:02
平均ペース: 10:43 min/km
高度上昇値: 1,070 m
カロリー: 2,585 C

費用
コンビニ:280円
一番亭ランチ:609円
ドリンク1本自販機:150円
薬局:376円
ローソン ビールとか:355円

電車 私鉄:300円
JRは青春18切符:2300円


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