孤高の人 加藤文太郎
山好きの人なら、一度は読んでいるだろう新田次郎の
山岳小説、孤高の人。
昭和初期に活躍した日本を代表する登山家で、当時はまだ
登山が一部のお金持ちだけの趣味だったものを
一般社会人にも広めた功績は大きい。
また、日本アルプスなどに登る時には、地元の案内人を
ガイドとして雇って同行するのが、常識だったが
加藤文太郎は単独で山へ入っていった。
実在の登山家、加藤文太郎をモデルにした新田次郎の
傑作山岳小説である。
この本を読んで、山にのめり込んだ人は少なくないだろう。
単独行という加藤文太郎の著作もあるが、私はまだ読んでいない。
それほど山に詳しくなく、日本アルプスなどの経験がない
私にはいまひとつ地理感がつかめない。
だったら、もっと山に登れ!
と叱られそうだけど。
加藤文太郎は、たんなる単独登山を行ったというだけではなく、
その脚力が超人的だったのである。
山歩きをはじめて間もない1925(大正14)年には、
単独行で六甲山脈全山縦走を行なっている。
このときは午前5時に会社の宿舎を出て、100kmの全山縦走を
終えて戻ってきたのが翌日の午前2時。
しかも会社にはいつもどおり出社したというから、まさに驚異的というほかはない。
もし現在の装備をもってしたら、加藤文太郎はいったいどんな
記録を作ったのだろうか?
100kmのトレイルランニングレースに出場して、完走。
ゴール後いったん家に帰って、仮眠をとって朝には出勤する。
そんなスーパーマンのような登山者、トレイルランナーに
なっているかもしれない。
ヒマラヤにアタックしていただろうか?
北極や南極を歩いただろうか?
山の単独行とは、異なるかもしれないが、私のツーリング
スタイルは、自分だけの単独行だ。
バイクでも自転車でも、ジョギングの練習でも。
特にバイクでは、速い人についていけなかったり、
初心者や遅い人に気を遣って走るのは、お金をもらっても
嫌なタイプ。
他人に合わせて、つらい思いをするぐらいなら、自分一人で
道に迷っていた方がマシだ。
ツーリングというと、一人単独で自由に走るまわることを
極上としているが、バイクショップやチームでつるんで走る事を
ツーリングと呼ぶ人もいる。
全く私とは水が合わない、ライダーたちだ。
誰かをはじめから頼りにして走っているライダーに魅力を
感じる事は全く無い。
単独行は、無謀と言われがちだが、その準備には
しっかりと時間と手間をかけるのが普通だろう。
周りの人にバカにされようが、自分の意思を貫いて単独行に
こだわったスタイルにとても共感がもてる。
小説、孤高の人では、加藤文太郎は、宮村健と無理矢理
パーティーを組む羽目になり、また宮村の無謀な登山計画に
巻き込まれ、冬の北鎌尾根で遭難死している。
わがままで、自分勝手な宮村にさえ、会わなければ、加藤文太郎は
死なずに済んだものを、、、
と読者は、宮村健を迷惑登山仲間とみてしまいがちだ。
加藤文太郎が実名で登場しているため、その周りの人物も
名前は違えど、実際に彼の人生に影響をおよぼした人達である。
宮村健は、実在の人物、吉田富久と言われている。
小説では、とても寡黙で人付き合いの苦手な、本当に
孤独な変人として描写されているが、実際には山仲間を
大事にする友情溢れる人のようだ。
愛妻に山仲間の話や仲間との友情などを話していたし、
吉田との登山も北鎌尾根の以前にも行っている。
加藤は、自分が岩登りが苦手で下手なため、同行した吉田に
とても迷惑をかけてしまい、指も凍傷させてしまったことを
ノートに記録している。
ザイルで命を預け合った山男の友情で結ばれていたと思われる。
ドラマチックな展開にし、単独行の加藤を孤高の人とするための
作者ならではの演出なのか、出版社、編集者の企画なのかは不明。
実話として小説を発表しているからには、登場人物のイメージは
読者の勝手な思い込みとして残ってしまうことを作家 新田次郎は
どう考えていたのだろうか。
同名の漫画があることを最近知った。
立ち読みしたけど、中は現在の若者の話になっていて
加藤文太郎との関連はなさそうだ。
若い人が、漫画の原作を読んでみたくなった
という理由から、新田次郎の孤高の人を読んでいるようだ。
漫画をきっかけでも、良いからもっと小説を読み、
加藤文太郎のような人物がいた事を知ってもらう事は
たいへん喜ばしいと思う。
加藤文太郎記念図書館の 「孤高の人」より引用
加藤文太郎は、1905年(明治38年)3月11日
兵庫県美方郡浜坂町浜坂552番地 加藤岩太郎と、よねの四男として生まれる。
1919年(大正8年)3月11日 浜坂尋常高等小学校高等科を卒業後、
神戸市の三菱内燃機神戸製作所(現在は三菱神戸造船所)に製図修業生として入社、
設計課員として精励するかたわら、兵庫県立工業学校別科機械科(修業年限2ヶ年)
を卒業、更に神戸工業高等専修学校電気科(修業年限3ヶ年)の課程を卒業、
技能の向上に専念した。
1923年(大正12年)から登山を始め、1925年(大正14年)夏、
白馬岳登山が始まりで、1928年(昭和3年)ごろから単独行を重ね、
積雪期の八ヶ岳、槍ヶ岳、立山、穂高岳、黒部五郎岳、笠ヶ岳など
果敢な山登りを展開する。
なかでも冬の槍ヶ岳単独登頂は、当時の新聞や岳人たちをアッといわせる驚異的な足跡を残す。
彼のその沈着と用意周到かつ独創的にして勇猛果敢不屈の岳人として、
「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」と呼ばれ、日本の登山界に不滅の足跡を残し、
国宝的存在とまで賞賛されるに至る。
やがて、加藤もより困難な山登りに挑むため、良き同伴者を求め、
1934年(昭和9年)4月、吉田富久君と共に前穂高北尾根をめざす。
翌年1月には、単独で立山から針ノ木岳を越えて大町に出た。
そして、1936年(昭和11年)1月初旬、再び吉田君と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑み、
猛吹雪にあい、天上沢に31歳の青春を終える。
ヒマラヤへの夢を実現できなかったのが惜しまれる。
彼の死をある新聞は、「国宝的山の猛者、槍で遭難」と伝える。
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